威風堂々

春から社会人

京都と「京都」

数日前に京都に来る日本人観光客が減り続けているという記事が話題になっていた。Twitterで検索してみるといろんな人が好き勝手なことを言いまくっていた。「外国人観光客ばかりを受け入れてきた結果だ」とか「外国人が多すぎて風情がない、行く気にならない」とか挙句「外国人はいらない、追い出せ」だとか(←この最後の意見は最早風物詩みたいなものですね)。

私は実際京都に住んでいるのだが、確かに外国人が多いという印象はある。バイト先にもよく外国人が来るし道端を歩いていてもよく見かける。これは余談なのだが、日本語も全く分からないのに日本に観光に来ている外国人は肝が据わっていて凄いなとバイトしていると思う。

話を戻そう。私が京都に来たのは単純に京都という場所へのあこがれが大きい。初めて京都に来たのは小学校の時の家族旅行、次が中学の修学旅行だった。もう昔のことなので明瞭には覚えていないが、その時に感じた京都に惹かれて私は京都の大学を受験したのだ。その点、私も正直外国人観光客と変わらないミーハーである。京都と言えば日本史のメインの舞台、古都、日本史好きとしては京都に住めるということはかなりの憧れだった。外国人観光客も同じようなものだろう。日本といえば京都、それだけで京都に来ている人が相当数いると思う。

私が大学に入って京都に来た時感じたのは、「あれ、京都らしい京都ってどこにあるんだ?」ということだ。清水寺の周辺は確かに一般人が思う「京都」なのだ。だが1年住んでみて未だに清水寺周辺以外に所謂「京都」を見たことがない。祇園周辺は正直安っぽい歓楽街だなという印象を受けたし、他の観光地周辺も観光地が街中にポツンとあると言った方が正しい表現だと思う。

もしかしたら昔に来た時点で既にそうだったのかもしれないが、京都というのは今は恐らく「京都」ではないと思う。ただ京都は観光産業でもっている街であるのは確かなのでどうしても観光客向けに街が発展していくのはしょうがないと思う。これはジレンマだ。仮の話だが、例えば今外国人観光客を全員追い出したとして多分京都はやっていけない。外国人は完全に「京都」のイメージでいつまでも、少なくとも今は京都に来てくれるが、日本人は恐らく「京都」のイメージで京都には戻ってこない。そこにあるのは人が多い、完全に観光地化した街という印象のみだと思う。観光地化した街ならばそこらじゅうにあるし、京都が生き残っていくためには京都ブランドに縋って外国人観光客でもなんでも受け入れていくしかないんじゃないかと個人的には考えている。最早外国人観光客が大勢来るようになった時点で後戻りは出来なかったと思う。ただ別に何かしなくても外国人観光客は「京都」のイメージで京都に来てくれる、それは大きな強みだ。私もたまに観光客が多すぎて「京都に観光客来ないで欲しい」なんて言っているが、観光客が来なかったら京都が破綻することも分かっているのでもうどうすることもできないと思う。

京都はこのままいずれ外国人が徐々に減っていくと衰退していくのだろうか。