威風堂々

春から社会人

永瀬伊織は可愛いなあ

 

 

この間、なんとなくdアニメストアココロコネクトを見た。本当になんとなくだったんだけど、今まで見たアニメの中で一番衝撃を受けた。それはもう価値観が崩落していくぐらいには。けいおん!を見たときも同じようなことを思ったが、今回はわけが違う。人生の根本、生き方に関わるところで本当に衝撃を受けた。これは原作も読まなければならないと、使命感に駆られ、使ったこともないKindleを初めて利用して、とてつもない速度で11巻分読み切った。好きかと聞かれると確かに好きだけど、誰かに勧めたいとはそこまでは思わない。興味があるなら読めばという感じ。本当は読まなければよかったけどどうせ読むならもっと早く読んでおけばよかった。そんな作品だった。ただ間違いないのは、この作品は自分の大切なものの一つとして加わるくらい、すごい作品だった。

 

この物語はいわゆる典型的な青春群像劇だ。物語の中で語り手も変わる。一応主人公は八重樫太一なのだが、それでもこの物語はやっぱり永瀬伊織の物語だ。そしてこの作品を読んで、アニメを見て、永瀬伊織という人物が本当に好きだなと心から思った。それは容姿から性格まですべて含めて好きなアニメキャラクター1位って言えるくらいに好きだ。永瀬伊織という女の子はとても可愛い。「学校一」と評され、ミスコンで優勝するくらいに。運動も勉強も人並み以上にできる。そして何より人当たりが最高にいい。ただ彼女と同じ部活、文化研究部の面々は初対面の頃に彼女に対してそれ以外の印象も抱いていた。八重樫太一曰くそれは「形容し難いなにかもやもやしたもの」であり、桐山唯曰くそれは「たまに暗い影を感じる」であり、青木義文曰くそれは「『あれ?本当に楽しいと思ってるのかな?』」であり、稲葉姫子曰くそれは「太陽……というよりは人工的な照明」「なにか、腹の中に秘めているものがある」であった。ただそれは少なくとも八重樫太一、桐山唯、青木義文にとっては気にならないことだった。永瀬伊織は彼らにとって「強い」人間だったのだ。それは他のクラスメイトも含め共通の認識だった。

だが文化研究部に「現象」が起こるようになって事態が一変する。各人が「現象」を通じてトラウマを克服し、仲間とぶつかり合って成長していく、文化研究部もその絆を本物にしていくのだが永瀬伊織の問題は根深い。というか本来はそれは問題にならないことなのかもしれない。というのも永瀬伊織の「問題」は確かに度が過ぎてはいるが、あくまで普通なのだ。最初は人格入れ替わり現象。ここで永瀬伊織は八重樫太一に「問題」を告白する(ちなみに物語開始以前の時系列の短編で永瀬伊織は稲葉姫子にそのことを告白している)。それは「本当の『わたし』を……どうやら忘れちゃった」ことである。彼女は家庭環境のために人に気に入られるように生きるようになる。つまり「誰かが望む『わたし』として生きてきた」ために本当の自分を見失ってしまったのだ。それに対して1巻「ヒトランダム」クライマックスで八重樫太一はその顔のすべてが永瀬伊織であるとして肯定する。そして「そんな」永瀬伊織に対し、八重樫太一は告白する。これ以降永瀬伊織は自分を確立したかに思えた。次に起こる欲望解放現象。永瀬伊織は散り散りになる文化研究部をあくまでまとめようとして奔走する。ここにおいて永瀬伊織は解決される側ではない。むしろ2巻「キズランダム」クライマックスで永瀬伊織は稲葉姫子に対して「わたしはどんなぼろぼろの稲葉んでも好き」と稲葉姫子を肯定するのだ。その次に起こる時間退行現象。ここで永瀬伊織は家庭のことが絡み、再び闇を見せる。過去をやり直せるならやり直してもっとうまくやりたい、と。永瀬伊織はこの時点でまだ「うまくやる」ことにこだわっている。これが後で尾を引くのだが。3巻で八重樫太一は永瀬伊織の本質に近づく機会があった。しかしあくまで八重樫太一の永瀬伊織に抱く印象は「明るい笑顔とか、元気な姿」である。

そして4巻「ミチランダム」において感情伝導現象を通じて、「永瀬伊織」はついに崩壊する。そして本編が始まる前の冒頭における「やっぱり違う。これじゃない。もう上手くはやれない。」という独白に至る。明るく、元気で、皆と仲の良い『永瀬伊織』は鳴りを潜め、皆が思う『永瀬伊織』とは異なる面が現実に表出するのだ。そして文化研究部の面々は永瀬伊織に対して「あまりにも変わってしまった」「おかしくなってる」「キャラじゃない」と恐怖さえ抱くのだが、結果理想像を押し付けていたことに気づく。永瀬伊織は他人に期待される自分を演じることに、単純に言えば疲れてしまった。だから「元に戻るもクソもない」。この解決は本当に単純に言えば「期待に完璧に応える必要がない」ということだった。これを機に永瀬伊織は復活し、本当に成長する。悩む子供を導くという夢を見つけ、無理のない範囲で「永瀬伊織」を継続させるようになった。時間が進みいろいろあるのだが、それは原作を読んでいただくということで(ちなみに4巻までがアニメ化の範囲、ここが山場なのでアニメだけでも十分楽しめる)、最終巻の最終章は完全に永瀬伊織の目線で描かれている。そこからもやっぱりこの物語は永瀬伊織の物語だったんだなと思う。

さて、紆余曲折あってきれいに完結したのだが、永瀬伊織の問題は根本的には解決していないように思う。人間誰でも度の違いはあれども演じている部分はあるはず(だと思う)。人に合わせるため、そっちの方が生きやすい、いろいろ理由はあると思うが、実際そこまでひどくないにせよ、たまに何してるんだろうな自分って思いませんか?私は思いますよ。で、結局いつもと違う自分を出すことが怖くなる。それに対して出された答えが、完璧に期待に応えようとするな、たまにガス抜きしろというものだが、それは演じていること根本の解決策にはなっていない。言ってみれば脇道的な解決でしかない。実際永瀬伊織はそれで復活したわけだが、以降本質的な自分を表出できたのか、と聞かれればできている描写は無かった。そりゃ人間関係の円滑化的な面から言っても完全に演じることを放棄するのは望ましくないが、だからと言ってもう演じれないと言った人間に息抜きしながらがんばれはないんじゃないだろうか。というか本当の自分って考えてみたらなんなんだろうか。本当の自分っていうイデアが存在してそこからどれだけずれているかなんて尺度は存在しない。そう、この問題はおそらく解決策なんてない爆弾だろう。可能なら触らない方がいい。4巻において(1巻でもその片鱗は見せているが)永瀬伊織はかなり本質的なことを言っている。

人間が今までと全部変わったら、どこに対して友達でいたいと感じるのか。それはもはや別人なのに。過去に仲良くした事実があればその人がどれだけひどい人になっても友達なのか。

これに対する解決シーンでの回答は「理屈とか理由はどうでもいい」。これに関しては本当に釈然としない。すべてに論理性を求めるわけではないが、これは回答になってないだろ…

とまあ爆弾を投げつけていかれたので、ここ数日ずっと陰鬱としている。そういう意味で価値観を崩壊させられるだけさせられて放置されている状態。この作品は人間の内面部分に切り込んでいるのでそういう意味ではかなり波長が合った。個人的に人間のどろどろした部分を外から見るのは好きなので。これから生き方を変えようとかそういうのではないんだけどこれから頭の片隅に爆弾を抱えて生きていくんだろうなと思うと少し辛い。ますます拗らせそう。

 

あ、あと扱っているテーマこそ結構面倒だけどこの作品は気持ちいいくらいの青春です。青春コンプレックスの人間的にはとてもうらやましく見えました。全幅の信頼を置ける部活内の親友と恋愛と。もう手に入らないので余計にないものねだりしたくなります。