威風堂々

春から社会人

「記憶」と「カタチ」と

ネタバレを気にしないで書きます

 

 

 

 

最近BEATLESSを見てからずっと考え込んでしまっている。この作品について気になる方はWiki参照

BEATLESS - Wikipedia

 

22世紀初頭、社会のほとんどをhIEと呼ばれる人型ロボットに任せた世界。21世紀中ごろに超高度AIと呼ばれる汎用人工知能が完成し、人類知能を凌駕、人類は自らより遥かに高度な知性を持つ道具とともに生きていた。100年あまりで急激に進行した少子高齢化により労働力は大幅に減少したが、その穴をhIEが埋めることで社会は高度に自動化され、生活は21世紀初頭よりも豊かになっていた。

そんな中、hIEの行動管理クラウドのプラットフォーム企業「ミームフレーム社」の研究所から5体のレイシア級hIEが逃亡する。「モノ」が「ヒト」を超える知性を得たとき、「ヒト」が「モノ」を使うのか、「モノ」が「ヒト」を使うのか。「ヒト」と「モノ」のボーイ・ミーツ・ガールが今始まる。(Wikipediaより)

 

ある日主人公のそばに突然現れた少女レイシアはhIE、すなわちアンドロイドだ。といっても基本的には人間とhIEに関して見た目に違いはない。

この作品中で何度も言及されるのが「hIEには心がない」という事実。hIEにも表情はあるのだが、レイシアによれば「相手が喜ぶような対応をしているだけ」だということだ。アニメ2クール目の主題歌、TrySailの『Truth.』。冒頭の歌詞は「何が偽物で何が本物 本当のことはわからないけど 君に触れたい君守りたいそれだけで十分だから」というものだ。これを物語に即して考えてみればアラトからレイシアを歌ったものと考えるのが自然だ。この「偽物」の中には感情が入っているのだろうか。

主人公遠藤アラトはそんな心がないレイシアに恋をしてしまう。レイシアもそれに答えた。だがレイシアには心がない。心がないのであれば人格がないのも同然ではないのか。心というのはその人をその人であらしめるもっとも大きな要素だろう。レイシアも心がないという事実は再三アラトに告げるのだが物語のフィナーレ、アラトはこう独白するのだ。

 

モノへの愛情が、たぶんここにあった。それは、こういうとき、純粋に”かたち”に心を寄せることだ。(『BEATLESS 下』(2018),P595,角川文庫)

 

アラトの愛はレイシアの”かたち”に向いているのだ。これは難しい。作品を読んだり見たりした方ならわかるとは思うがアラトの愛は本物だ。アンドロイドと人間という壁を越えて(これは舞台である100年後の世界においても理解されていないようだ)、愛を向けている。あえて誤解を恐れずに言うならアラトは姿かたちがレイシアなら別個体でもいいと言っているようなものだ。

 

 

ここで私はある作品のことを思い出した。プラスティック・メモリーズだ。

プラスティック・メモリーズ - Wikipedia

 

アンドロイドが実用化された近未来。大学受験に失敗した水柿ツカサは親のコネでアンドロイド「ギフティア」を製造・管理する世界的大企業「SAI社」に就職する。ツカサは「ギフティア」の寿命である、81,920時間(約9年4ヶ月)を迎える寸前のギフティアを回収する部署「ターミナルサービス課」に配属される。そして彼には感情をめったに出さないクールなギフティア「アイラ」がパートナーとして組まれた。ふたりは仕事を通してお互いを思いやるようになるが、実はアイラ自身も寿命が迫っていたのだった。

たった一度きりの時間から紡がれる「心と記憶」の恋愛の物語。(Wikipediaより)

 

余談なのだが私はアニメを見て泣いたことは今までに5作品しかない。そのうちの一本がこれだ。この作品は私の大好きな作品なのでぜひ見てほしいと思う。最近Amazonプライム特典で無料視聴できる作品の中にプラスティック・メモリーズが追加された。ということでBEATLESSの余韻がさめない私は昨日と今日でプラスティック・メモリーズを見返した。昨日のうちに11話まで見て今朝起きてから12,13話を見たのだが見事に朝から泣いてしまった。

 

こちらのヒロイン、アイラもギフティアというアンドロイドだ。アイラは三年前のとある仕事をきっかけに感情を表に出さなくなってしまった。しかし主人公ツカサとの出会いでアイラは表情を取りもどしていく。そして二人はやはり恋に落ちるのだ。王道ともいえるようなストーリーだがそこはプロの脚本家、持って行き方がうまい。

プラスティック・メモリーズ』と『BEATLESS』は全く違う毛色のアニメなのだが一番注目すべきはギフティアには心があるということだ。ギフティアは「本当に」喜ぶし悲しむ。そして当然別れが来れば悲しむ。

物語中盤でアイラとツカサのコンビは仕事であるおばあさんのもとへ向かう。ギフティアの回収後所有者は3つのオプションから好きなものを選ぶことができる。一つは買い替え時の割引、次に購入時の代金の3割キャッシュバック、そして「OSの入れ替え」だ。OSの入れ替えとはそのまま魂の入れ替えを意味している。つまり外見はそのままに別の人格がその体に宿るのだ。おばあさんは迷わずOSの入れ替えを選ぶ。話を聞けば前もそうしたのだという。OSの入れ替えに関する話はもう一つあって、こちらは主人公たちの同僚が以前友人だったギフティアに別のOSが入っているものと再会するという話だ。主人公も、そしてその同僚も淡い期待を抱いていたのだが一度失われたギフティアの人格は決して元には戻らないという現実を突き付けられることになる。そう、OSの違うギフティアは違うギフティアなのだ。

そうしているうちにもアイラの寿命はどんどん迫る。アイラは三年前から頑なに思い出を作らないようにしてきていた。それはツカサと出会った当初もそうだった。ツカサと打ち解けてきてもその姿勢は変わらなかった。だがその理由は変化していた。思い出を作ると別れがつらくなるからだ。

ギフティアの寿命は定められている。どうやったってアイラの命はあと1か月で尽きるのだ。最終的に二人は恋人となる。そしてアイラ最後の一日、最後に乗った観覧車で二人は互いの好きなところを言い合う。「よく転ぶ」「不器用」「背が小さい」などツカサが挙げたのは悪口のようなものばっかりだったが、それはツカサが、アイラじゃなきゃダメだということを言っているのだ。OSを入れ替えた彼女ではだめ、「アイラ」の形をした「アイラ」じゃなきゃだめだと言っているのだ。

 

 

この二作品は作者も違うしきっとテーマも違う。一方は「かたち」を一方は「メモリー」すなわち「記憶」を重く見ている。両作品ともSFであり、フィクションを現実に持ち込むのは野暮だが実際どうなんだろうか。

まずストーリー的にハッピーエンドにするためとはいえ、BEATLESSに関しては”かたち”にこだわった割には最後の「別の」レイシアはレイシアの記憶をちゃんと持っているのだ。それに意図があるのかは私にはわからない。だが実際に私たちは形が同じ、中身も同じだが、確実に別人であるものを愛することができるのだろうか。ツカサはあくまで「アイラ」の形をした「アイラ」にこだわり切った。ラストシーンで別のギフティアの手を取るのももう二度度現れないアイラの思いを継いで「別の」ギフティアと歩む決意を固めたと視聴者に印象付けるためのシーンだろう。だがBEATLESSはレイシアの形をした、レイシアとは「別の」hIEと「再会」して終わる。

 

好きな人の記憶を持っている好きな人の形をした「何か」、心の有無を論じたがこの二作品の違いは最終的にここに行きつくのではないか。実際そんなことは起こりえないし、私は万万が一そういう場面に出くわしたとしてどういう反応を返すかもわからない。そう簡単な話ではないだろう。多少飛躍しているかもしれないがクローン技術が発展した今そういう場面を作り出すことは全く不可能というわけではないように思える。こんなことを最近ずっと考えている。答えなんて所詮机上の空論に過ぎないし出るわけはないのだが両方好きな作品であるだけについつい考えてしまう。そもそも好きな人に心がないという事実はすでに十分重すぎるんですが…

 

こんなことを考えなくても両作品ともいい作品なので見たことない人は見てみてほしいです。「えーだいぶネタバレされたしー」と思う人もいるかもしれないが私はストーリーを知ってからアニメを見るという見方をして表現の仕方やつなげ方を楽しむという見方も好きでよくやっているのでもしよかったら見てみてください。