威風堂々

春から社会人

夏休み

タイトルは思いつかなかったので終わってほしくない夏休みに願いを込めて付けた。特に記事の内容とは関係ないです。

 

数日前に自信診断的なのを受けたら100点中6点と言われた。言われたというか実際自信がないのは確かなのでよくわかったなという感じなのですが。まあネットの診断だし鵜呑みにしてるわけでもないし、診断のせいでこの記事を書こうと思ったのでもない。前々から思っていたことですし。

なんでこんなに自分に自信がないかというと何にも秀でてないからなのですね。中途半端に勉強ができてしまい、多少テニスと卓球ができる、中途半端に楽器も弾ける、多少料理もできる。多彩と言えばそういう面もあるかもしれませんが何か胸を張って誇れるものが何一つない。そういう人間は世にたくさんいると思いますが私は基本的にコンプレックスの塊のような人間なので過剰に自信を喪失してしまっているのですね。自分でもわかってはいるんですが。

私は昔から勉強ができる人間として扱われてきましたし、自分でもそう思っていた時は結構長かったです。でも所詮私の頭は努力型でしかないということにあるとき気づいてしまいました。いや、気づくというかやっと認めたという方が正しいんですが。平均より地頭がいいのは確かだとは思いますが、ただそれだけ。私は努力量を重ねただけの少しだけ優秀な人間でしかないということに気づいてしまった。楽器でもそう、だから歴は同じでも才能がある人間にはかなわない。楽器に関しては私は人並みでしかなくて少し優秀ということすらないので大学に来て同期が増えたら嫌でもわかってしまう。同期にはもう定演乗れる人もいるのに自分は乗れない。

昔は天才とか言われたら内心「努力してるんだよ…」と努力を認めてほしく思いましたが努力なんて所詮過程でしかなくて大事なのは結果。才能だろうが努力だろうが到達点が同じなら評価は同じ。むしろ才能が有れば「効率的」に結果にたどり着いたとして評価される。努力には限界があるが才能には限界はない。近頃は天才なんて言われることもないですが言われたとしても「ほんとに天才だったらなあ」としか思いません。私は努力するしかないので一生懸命勉強もしますし練習もしますがまあ馬鹿らしいこととも言えなくはない。そうするしかないのでやめるわけにもいかないですけどね。

大学受験の時、私は狂ったように勉強した。平日10時間、休日15時間がノルマ。誰に言われたわけでもない。自分で課したのだ。私は一度信じると突き進んでしまうところがあるので、精神も相当病んだし、こんなに勉強して浪人したらと思うと自分の限界を突き付けられるのが怖かったのもある。先生や親にも心配された。でも河合の全統記述では全国一桁をとったし、先生からの信頼も厚かった。センターも難なく9割を超えたし、開示を見れば二次も割と上位合格だった。学校で唯一最も偏差値の高い進学先へ。無事合格したからこんな記事が書けているもののもし落ちていたらどうなっていただろうか。多分つぶされておかしくなっていただろう。そういう意味でも合格して本当によかったと思う。「努力家」にはそういった危うさが常につきまとうものだと私は思う。

 

 

小学校か中学校かで好きな言葉を見つけるみたいな授業がありました。私は確か「努力の天才になりたい」という言葉を選んだと思います。名前は忘れてしまいましたが有名な水泳選手の言葉です。努力の天才、努力には限界があるが才能には限界がない。言葉に矛盾をはらんでいるような気がしないでもないですが昔の私がこの言葉を好きと言っていたのも面白い話ですね。