威風堂々

春から社会人

自己肯定感

これはどうしても譲れないし軽々しく言う人を許せない類のもので、自己肯定感がどうにかして身につくものだという感覚が私にはありません。

 

何回か書いたこともありますが私は昔は漠然とした自己肯定感を持っていました。自分はすごい人間だと思っていたし、実際に今の自分も社会全体で見たら上位数パーセントのエリートなんじゃないかと思います。それでも私は自己肯定感をいつの間にか失っていたし、取り戻すこともできないままです。

 

きっと自己肯定感の源泉は何かをやり遂げた経験であったり、その結果得られたものであったり、そういうものなんでしょう。頭の中では理解していてもそれが自分も同じだとは限りません。

 

例えば私は一般的に日本で二番目に頭のいいと言われる大学に合格しました。蓋を開けてみれば合格最低点と最高点からして恐らく学部内上位2.3割の成績で入ったんだと思います。その時はやっぱり嬉しかったしやり遂げた感はありました。それでも私は自分がすごい人間だとは思えなかったし、自分のことを好きになることも出来ませんでした。

 

理由はなんとなくは分かっていて、結局は自分がそれしかないと理解しているから肯定できないんだと思います。端的に言えば完璧主義です。確かに私は勉強は人よりできますが、運動は人並みにもできないし、友達も少ない、性格もいい訳では無いし、顔もいい訳では無い。お金持ちでもなければなにか生涯をかけて追いたい夢がある訳でもない。勉強だって人よりはできても世界で1番できる訳では無いし、そもそも大学内ですら単位を落としています。

 

どこかで折り合いをつけなければいけないというのも分かっているのですがそうもいかないのが感情的な話です。結局自分の中にある自分の像は「そこそこ勉強ができるけどそれだけの人間」なわけです。それを自覚したあたりで私の自己肯定感は失われてしまいました。

 

努力をすることで自己肯定感が得られるというのも嘘です。努力をしないで一定以上の結果を得られる人だっているんだからそれと比べたら努力をしないといけない時点で肯定なんてできるもんじゃありません。努力なんて皆して当たり前で、地力の差に対して劣等感を抱くなら自己肯定感なんて得られるはずがない。

 

だから私は○○をしたら自己肯定感が得られるだとか言う人が本当に許せない。確かにあなたはそうだったのかもしれないけれど、世の中にはそうじゃない人もいるしそれで苦しみながら生きている人だっているんだ。こんなことを言ったらTwitterにいるすぐ何にでも噛み付くような人達と同じ理論になってしまう気もするが、これだけは本当に折り合いが付けられない。

 

両親がいなくて悲しんできた人間がいたとして、「両親がいなくても幸せになれる」なんて話を聞いたらどう感じるか。幸せになるように向かう人間もいるだろうが、大抵の人間にとっては無責任な戯言にしか聞こえないだろう。私もそれだ。自己肯定感なんてものは存在しなくて、とっくのとうに自己肯定感を得られると言われるようなことは試している、それでも身につかなかったのに、脳天気に「こうすれば自己肯定感が身につく」なんて言われてみれば腹くらい立つ。

 

私は多分この先も自己肯定感は身につかない。もし結婚してある程度の年収を得て、奥さんと子供に囲まれて、なんて状況を得れば幸せにはなれるだろうしそれで満足はする。でも自己肯定感だけは手に入れられる気はしない。自分で言うのもなんだが、私は自分に厳しい人間なので、何かを手に入れてもきっと粗探しで足りないものを見つけてしまう。そして自己肯定感なんてものは一生手に入らない。自分のことを好きにもなれない。だから自己肯定感を得た人は羨ましいし、もしそれを押し付けようとしてくるならば善意であろうと憎い。

 

これはただの掃き溜めだし見なかったことにしてもらっていいけれどこれは私の心に根を張った一番の問題だし、なんなら一番の地雷だということを付き合いのある人間には多少は理解しておいて欲しいなと思います。こんなんだから私はとても生き辛い。

 

 

 

ちなみにおまけのように書きますが、私は劣等感だけで生きているような人間なので他人のことは結構簡単に肯定します。他が全部だめだとしてもすごいと思うところは尊敬できるし、それだけでその人のことを好きになれます。そういう意味でこんなめんどくさい人間と付き合ってくれる人ってだけで私はその人のことが好きです。